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哺乳類


—人類—


36 叉状研歯のある縄文時代頭蓋骨


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大阪府藤井寺市国府遺跡
縄文時代晩期
1919年
総合研究資料館、人類j部門

叉状研歯のある縄文時代頭蓋骨は全国で合計28例記載されているが(春成1989)、本標本はそれらの中でも最も保存がよく典型的なものの1つである。小金井良精らが1919年に大阪府の国府遺跡より発掘し、同年、人類学雑誌に国府の第9号人骨として報告した(小金井1919)。日本における叉状研歯の第1号報告である。この国府標本とならんで典型的な叉状研歯の例としては、鈴木尚によって発掘および報告された愛知県渥美半島の伊川津標本が良く知られている(鈴木1940)。

叉状研歯とは上顎切歯に人口的に切痕状の刻みを入れたものをいう。国府標本に見られる加工痕を小金井は「截痕」による「三叉(状)研磨」と記載した。「叉状研歯」という用語は鈴木尚によって使われ(鈴木1939)、その後、一般化したようである。縄文時代の叉状研歯は典型的に、第1切歯では2ヶ所の截痕により切縁が三尖に、第2切歯では1ヶ所の截痕により二尖に加工される。截痕は歯冠の舌側面に上下方向に形成され、切縁に向かうほど深く、舌側面に達し、フォーク状の歯冠をつくる。標本によっては唇側面にのみ浅い縦走する溝が刻まれ、加工途上と解釈されるものもある(春成1989、鈴木1940)。

叉状研歯の様々な側面については、1989年に春成秀爾が詳しくまとめ、論じている(春成1989)。叉状研歯は縄文晩期に限られ、抜歯風習の最隆盛期にはじめて出現し、地理的には東海地方西部から近畿地方に分布したと考えられている。叉状研歯を出土した8遺跡は、実際には愛知県に集中し、唯一、国府遺跡だけが同県外であるが、その間の地域における縄文晩期の人骨発掘数が極めて少ないため、連続分布を否定するものではない。一方、東日本あるいは岡山県以西では実際にこうした習俗がなかったと思われている。

叉状研歯の遺跡内の出現頻度は決して高くない。発掘人骨全数の割合では数パーセントと甚だ稀である。しかし、多くの個体では上顎切歯が保存・回収されていず、叉状研歯の判定ができないため、実際にはより高頻度に存在したと推定される。例えば、切歯による厳密な集計がなされている吉胡貝塚では叉状研歯は13パーセントの個体におよぶ。叉状研歯の出現に性別による片寄りはなく、ほぼ1対1の男女比が報告されている。また、年齢分布は広く、若年から熟年に渡る。若年個体(20歳未満)の2体は形成途上の叉状研歯を持つが、壮年個体でも形成途上と思われる標本が複数、知られている。

叉状研歯の既存例は全て抜歯を合わせ持つ。これは縄文晩期では抜歯が不偏的であったためでもある。愛知県の吉胡貝塚と岡山県の津雲貝塚では90パーセント前後の高率で抜歯が記録されている。抜歯は成人式として行われたと一般に解釈されており(渡辺1966)、さらに、結婚、再婚、服喪の機会に追加されたと推測されている(春成1979)。縄文時代の抜歯の基本系は上顎の両犬歯を抜くものである。この基本型に下顎の両犬歯をさらに抜く2C系と下顎切歯4本を抜く4I系が認められる。西日本ではこの両系が並存し、各遺跡内ではほぼ同数見られる。これら下顎の抜歯を、春成は、婚姻抜歯とし、前者は他集団からの婚入者、後者はその土地の出身者と解釈した(春成1979)。叉状研歯の出現は4I系の下顎抜歯に片寄っており、これは叉状研歯の1つの特徴となっている(春成1989)。

叉状研歯の持つ意味としては一般に魔術師のような特殊人物(小金井1919、清野1923)あるいは種族の有力者(鈴木1940、鈴木1939)などが考えられてきた。春成はさらに議論を深め、出現頻度、性別、年齢分布(完型および未完のもの)、抜歯型の片寄り、墓地内での集中傾向、装身具の装着状況などを考慮し、叉状研歯の意義を考察した。そして、叉状研歯の施行者は特別の血統に属し、種々の儀礼における集団の指導者として機能し、対外的にも代表者的性格をもっただろうと推測した(春成1989)。

本学の総合研究資料館には縄文時代人骨が1000体分以上収蔵されている(遠藤ら1979)。これらは主として、小金井良精、長谷部信人、鈴木尚らの研究活動の一環として収集された。本展示標本が出土した国府遺跡は古くから発掘調査が進められ、早くから先史時代人骨が大量に発堀された学史上重要な遺跡である。まずは1917年に濱田耕作らがはじめて人骨を発掘した。続いて鳥居龍蔵、大串菊太郎、小金井良精、清野謙次らがそれぞれ独自に発掘を行い、1921年までに80体近い人骨が出土した(小金井1917、1919、長谷部1919、清野・宮本1926、池田1988)。本学に収蔵されているのは、このうち、鳥居龍蔵が1917年に発掘した3体分、小金井良精らが1919年に発掘した14体分、および長谷部信人が収集した8体分である。

見事な叉状研歯のある国府9号標本は、骨盤、大腿骨などが断片的にしか保存されていない不完全骨格標本である。詳しい記載はされておらず、叉状研歯の報告の一環として、25から30歳、性別不明と小金井によって報告された(小金井1919)。春成は小泉清隆の鑑定により、20から24歳の女性とした。いずれも、詳しい判定理由は述べていない。

性別については前頭部や後頭部などが華奢で、四肢骨も小さく華奢なため、女性を思わせるが、いくつかの計測値をみると、津雲貝塚縄文時代人の男女平均値の中間に位置し、慎重な判定が望まれる。残念ながら恥骨も大座骨切痕部も存在しないが、四肢骨関節部などの計測値は小さく津雲貝塚の女性の平均に近い。年齢については鎖骨胸骨端の骨端線が一部残存するものの、完全に癒合しており、20歳代初期とは考えにくい。

頭蓋骨の保存状態は良好だが、土圧で変形しており、右側が左側に対して全体的に著しく後方へ変位し、右前頭部は後退し、後頭部は下後方に突出している。欠損部位としては右側の眼窩上部、鼻根部および頭蓋底が挙げられる。小金井による1919年の叉状研歯報告では顔面の一部と下顎の写真だけが図版として掲載された。その後、右上顎骨の頬骨突起、前頭突起などが継がれたようだが、顔面部全体と脳頭蓋の連結は試みられなかったようである。このため、叉状研歯の例としてはもっぱら伊川津標本の写真が様々な出版物において用いられてきた(挿図1)。

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1995年3月現在、顔面と脳頭蓋部は分離しており、わずか左側の頬骨と前頭骨間で接合部位が存在するに過ぎなかった。両者を連結すると、顔面は著しくゆがんだ位置に固定され、下顎との咬合が事実上不可能に見えた。一方、長い年月の間には、脳頭蓋自身の組立(小金井による?)の一部は崩壊し、また、他の部位ではもともとの接合を手早く修復した形跡が少なからず見られた。

このため、今回の展示では、まずは、現存する組立を全て取り外し、各破片の連結を再度検討し、顔面部と脳頭蓋を合わせた復元を試みる事にした。この作業は筆者と高橋昌子とで行った。もともとの組立に使用された接着剤は松脂とろうの混合物であったが、これ以外に、水性ボンドあるいはセメダインによる再接合が多くの部位で見られた。これらにはアセトンを使用し、延べ約55時間をかけ、解体およびクリーニング作業を一部実体顕微鏡下で施行した。結局は口蓋部の一部をのぞき、かつての接合は全てとりはずした(挿図2)。また、切歯の一部は歯槽内でゆるんでおり、エナメル質も破損していたため、歯槽から取りはずし、エナメル部の修復を行った。

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全体の組立は脳頭蓋部のゆがみのため難航したが、以下の方法で、咬合関係を保った全体復元を試みた。このためには歪みを最小限に補正するよう、適所に人工的ずれを導入する必要が予想された。特に頭蓋底と顎関節部の非対称性を以前の組立より減じることが重要と思われた。組立作業は全行程、実働39時間で終了した。接着にはポリビニルブチラール(商品名はBUTVARB-76、モンサント株式会社)をアセトンで適度な濃度に溶かした ものを用いた(挿図3)。

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(1) 第一に、各頭蓋冠の各骨の主要部位をそれぞれ組立てた。次に両頭頂骨と後頭鱗の連結を試みた。この時、3者の骨をベストフィットで連結すると乳突縫合部が歪み、左右側頭骨の非対称性が強調される事が判明した。このため、右頭頂骨内の後部1ヶ所に0.5ミリ程度のずれを人工的に挿入した。

(2) 前頭骨と左右頭頂骨の連結を試みたが、冠状縫合で若干の遊びがあり、中央部あるいは下側方部いずれでもベストフィットが可能であった。ここで側頭・蝶形骨と顔面部の位置関係を考慮すると、前頭骨をやや前方に回転した位置に継ぐ必要性が予想された。これは、顔面部と、側頭・蝶形骨との距離を許容範囲内に保ち、同時に、咬合位で下顎と側頭骨が正しく関節するために必要であった。このため、冠状縫合中央部で1ミリ程の間隙が人為的に作られた。

(3) 右の側頭・蝶形骨を頭蓋冠に接合した。頭蓋冠全体の強い歪みのため、右の顎関節部は左側に比し、著しく下後方に位置する傾向があった。これを最小限に止めるよう、乳突縫合部を中心に側頭骨を回転し、顎関節部がなるべく上外側へ位置するように接着した。また、この時、上顔部と咬合関係を保ちながら下顎が関節するよう配慮した。

(4) 左の側頭・蝶形骨を頭蓋冠に接合した。顔面部、下顎との関係をみると、顎関節部を側方へ張り出させる必要が明らかであった。このため、鱗状縫合部を強く接近させ、頭蓋底部がなるべく外側へ位置するよう接合した。それでも頭蓋底は狭すぎ、後頭骨の大後頭孔および乳突縫合部周辺の骨片は、あるいは大幅に適正位置からずらし、接合することとなった。また、顎関節間距離は小さく、下顎頭間副との間に若干の不一致が生じた。

(5) 最後に顔面部の結合であるが、これは非常に難航した。確実な連結は左の眼窩外側部、前頭骨・頬骨間だけである。そこで、この連結を起点に下顎骨が顎関節と合致するよう上顔部の設定を検討し、接合方法を決めた。そうすると、上顔部の中央および右側が前頭部に対し、適正位置よりやや前方に位置する。これは右前頭部が著しく後方へ歪んでいるためでもある。上顔部を適正位置に戻すと、上顎歯列の前後軸が矢状面に対し著しく斜走し、咬合位の下顎骨は顎関節から大きくはずれる。また、前頭部の歪みのため、左右の眼窩高を対称に保つと右側歯列が下方へ位置し、咬合面が著しく傾く。こうした状態で下顎を咬合位に置くと、例えば前面観で許容範囲を超えた歪みを生じる。このため、右側の顔高をやや減ずる位置で顔面部を連結した。

(6) 右前頭部の眼窩縁および鼻骨などの欠損部位はパラフィンと石膏の混合物にて整形した。この時、(5) で述べた問題のため、右上顎骨の前頭突起がやや前方へ変位しており、鼻根部の適正な形成がなされていないと思われる。前頭突起そのものは矢状方向を向き、縄文時代人としての特徴が見られる。また、鼻骨自身の水平方向の隆起については、実際、本復元以上に強く、より縄文時代人的であったと思われる。しかし、本標本の眉間および前頭鼻骨縫合部は比較的平坦で、典型的に隆起した鼻根部よりは平坦であったかもしれない。

最後に、本頭蓋標本に見られる、これら以外の特徴をいくつか紹介する。抜歯は上顎の両犬歯ならびに下顎の犬歯および切歯の全てに施行されている(4I2C型)。春成の解釈によると、この人物は国府遺跡集団の出自であり、同集団で一度結婚した後、再婚あるいは複婚したことになる。

小金井が指摘した通り(小金井1919)、本標本には上顎第三大臼歯が欠如しており、下顎の左右第三大臼歯および左の第一大臼歯に虫歯が見られる。これに関しては縄文人の上顎第三大臼歯の退化形・欠如率は約13パーセントと報告されている (Turner, 1987)。縄文人の虫歯の頻度には遺跡間差があるが、一般に狩猟採集民としては高く、通常10パーセント近い虫歯出現率を示す。最近、国府遺跡の人骨も含め、縄文時代後晩期に頻度が増す傾向が報告されている (Fujita, 1995)。上下顎の第2大臼歯と第2小臼歯にはエナメル減形成によるバンドが歯冠中位からやや歯頚線よりにみられ、5、6歳のころ、環境ストレスに遭遇したことを物語っている。

また、本頭蓋骨には目立つ形態小変異がいくつか見られる。まずは、前頭骨を2等分する前頭縫合がある。前頭骨にはさらに、眼窩上孔および眼窩上神経溝がみられる。後頭骨には横後頭縫合残存がある。これらのうち、前頭縫合および横後頭縫合残存は縄文時代人に相対的高頻度に出現する形質である。また、下顎骨に角前切痕がなく、前方へ体高が増さないなど、縄文時代人的である。

(諏訪 元)

参考文献

春成秀爾、1989、「叉状研歯」、『国立歴史民俗博物館研究報告』21、87〜137頁
小金井良精、1919、「日本石器時代人の歯牙を変形する風習に就いて」、『人類学雑誌』34、349〜368頁
鈴木尚、1940、「叉状研歯の新資料とその埋葬状態について」、『人類学雑誌』55、11〜16頁
鈴木尚、1939、「人工的歯牙変形」、『人類学・先史学講座』12、1〜51、雄山閣。
渡辺誠、1966、「縄文文化における抜歯風習の研究」、『古代学』12、173〜201頁
春成秀爾、1979、「縄文晩期の婚後居住規定」、『岡山大学法文学部学術紀要』40、25〜63頁
清野謙次、1923、「考古漫録 61 門歯に加工した石器時代人骨」、『社会史研究』10、41〜44頁
遠藤美子・遠藤萬里、1979、「東京大学総合研究資料館収蔵日本縄文時代人骨型録」、『東京大学総合研究資料館、標本資料報告第3号』
小金井良精、1917、「河内国南河内郡道明寺村大字国府字乾の石器時代遺跡より発掘せる人骨」、『人類学雑誌』32、361〜370頁
長谷部信人、1919、「石器時代人の抜歯に就いて」、『人類学雑誌』34、385〜392頁
清野謙次・宮本博人、1926、「国府石器時代人人骨の人類学的研究」、『人類学雑誌』41、339〜422頁
池田次郎、1988、「河内・国府遺跡の人骨」、『橿原考古学研究所論集』10、425〜449頁
Turner, C.G., 1987, Late Pleistocene and Holocene population history of East Asia based on dental variation. Am. J. Phys. Anthropol. 73: pp.305-321.
Fujita, H., 1995, Geographical and chronological differences in dental caries in neolithic Jomon period of Japan. Anthropol. Science 103: pp.23-37.


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