塑壁着色、額装
ホータン地域・ヴァラワステ
7〜8世紀頃
伝ル・コック将来品
縦35.3cm、横29.0cm
東洋文化研究所
本壁画断片が、かなりな大壁の下部に当たることは、左上婦女像が何らかの尊像の踵を両手で支えていることから推定できよう。また描かれた足のおよその寸法から、その主尊がほぼ2分の1等身程度であったことも目安としてよいであろう。ホータン地域に石窟寺院はなく、寺院址には、地上の木と土とで作った建造物の側壁半分以下が砂中にほぼ埋もれた形で残っており、スタインによる発掘写真では、壁面に並ぶ塑像は胸や腹部以下、壁画は下部のみのものがほとんどである。本壁画もまた、8世紀を過ぎてホータン地域の衰退、イスラム化により倒壊し、おそらく流砂に埋没した寺院内壁画下部の一断片ではあるが、遺されたのが図像上のキーポイントとなる好個の部分であったことは幸いである。
壁画表面は平滑で、壁体中核をなす塑土は見えないが、壁画の中心を竪に走る剥落部分などに、下塗りの粒子の細かい粘土様の灰茶色の層が現れており、その上に明るい白色土(石膏か)が画面下地として薄く施されている。なおごく一部を除き描線はすべて茶褐色であることをまず記しておく。
図は、左上の尊像の両足の踵を両肘や腕で支える婦女像と駱駝に乗る男子像の上部とに分かたれる。尊像両足の踵や左足先の部分は白色を厚めに塗り、恐らくごくわずかに暈をつけ、茶褐色の力のこもった線で輪郭しており、左足では甲と足指の境目の線と指3本が辛うじて残る。尊像は婦人に支えられているとはいえ、足先は踏み割り式の蓮華座を踏まえて立つ。蓮華座の連肉部上面には、小円形を散らし、連肉の輪郭線を1本引いて、その外周に蕋(淡い褐色帯状の上に茶褐色の縦線を並べて表す)を描く。その下周りは緑青の蓮弁であったのがすべて剥落した様子で、緑青の粒子が多少残存している。なお、この足先と蓮華座連肉の表現法は記憶に留めておいて頂きたい。
婦人は、いわゆる胡服の、両襟を折り開きウェストを絞った上衣をつけるが、両手の袖は漏斗状に拡がって袖口を長く垂らしている。袴は大きく膨らんで球状をなし、足先が見えないことからやや不自然ではあるが跪いているのであろうと考えられる。上衣、袴とも純白色で、上衣の両袖、襟、前面衽の合わせ目、裾廻りに濃褐色地に白色の三角や四角の小点を斜めに連ねた模様(模様も2種を交互に並べる)のある縁取りをつけて飾りとしている。衣文線を両肘、胸、腰部にかなり的確に加え、衣下の肉身を感じさせることが注目されよう。
婦人面貌は額から上部を欠くが、白色顔料を厚く密に塗り、引き締まった太めの鉄線描一筆で、右斜め上を向くやや細面の顔がまずしっかり輪郭付けられる。目は右眼窩線と上下瞼の線が遺るのみであるが、長めの直線的な鼻稜線には細線をそえて鼻の隆起を示す。小鼻は描かず唇も短い線のみであるが十分に婦人の気迫が伝わって来る。一方、左手指を細やかに描き出し、支えている筈の足裏を掻いているような動きを見せているのも面白い。袴の下は周囲に飾りのついた敷物か、請け花式蓮華座か判然としない。婦人像の下方は、茶色い地面で緑青に白点2、3で花をあらわした小さな草叢がいくつか見える。
下は草の生えた地面を駱駝に乗った男子が進む。この画面を見る限り、婦人像および彼女が支える尊像との繋がりは全くない。大きな頭光背(楕円形光背で内側をごく淡いピンク、外側を淡青色に塗り分ける)をつけたこの人物は、小像ながら本格的な仏画にも似た面貌描写による。面長ながらふくよかな肉付きのよい白い肌の面貌全体を、粘り気の強いしっかりした輪郭線で形造り、そのカーブを繰り返すように首の三道の線(ここでは2本)が引かれる。眉目、鼻は剥落のため定かではないが、拡大して観察すると赤褐色の眼窩線や下瞼線、さらに上瞼の墨線が手堅い描法によって施され、口も筆先の短いタッチで、上下の唇を描き分け、両端のアクセントも確かに添えられている。大きい耳の耳朶には太い耳當が嵌められ唯一の装身具となっている。的確な鉄線描によるこの格調高い面貌は、キジルや敦煌の壁画よりも焼損した法隆寺金堂壁画諸尊を想起させる。
頭光背と仏教尊像の容貌を備えてはいるが宝冠はつけず、丸くて頂上が2つに分かれた独特の帽子を被り、その後ろからイラン風の2本のリボンが右へ靡いていることも見逃せない。婦女像同様、折襟の上衣をつけ、襟の折り返しにもまた濃褐色地に白色の点線模様が入る。上衣は概ね灰色に見えるが、右肩から下と左袖部分は暗緑の色調で輪郭や衣文は明確ではない。袖は婦女像とは異なり、細い筒袖である。胸前に唐突な感じで左手と指が見えるが、これは駱駝の手綱を引き寄せたポーズであって第2・3指を強く折り曲げて手綱を握る様子を表わし、指と甲に境界線を引く。手綱は、細墨線で輪郭されてやや太く、ゆったりとしたカーブを描いて駱駝の鼻孔に到る。
さて右手は、駱駝の頭上に伸び、白点線入りの袖縁飾りから手先が出ている。掌を上に向け、屈した第2〜第5指の指先が見えるが、手の左半分はちょうど上からの剥落帯にかかって何も確認できるものはない。手綱のもう一方を握るととれないこともないが後述のように右手の持ち物が図像上のキーポイントとなるだけに惜しまれる。駱駝は白色で鼻筋の長く通ったスマートな頭部から首と、1つ目のこぶだけが見えている。乗り手と共に駱駝もまた端正な表現といえよう。駱駝の前方は、灰黒色の刷毛目が見えるのみで、この断片のさらに左に描かれたモチーフについては何ら手がかりがない。
さて松本榮一氏は、尊像の足を両手に支えた婦女像を、金光明最勝王経巻第8「堅牢地神品」などに説かれる堅牢地神にアトリビュートされ、ホータンのラワク塔祉の塑像天部像の足元にあって両手でその足を承ける半身の女神(註1)などに例証を求められた。しかし松本氏は本壁画の図像的な核心をなす尊像主には詳しく言及せずに論を終えている。上記経典の内容からすれば、堅牢地神に足を支えられたのは世尊釈迦ということになろう。
金光明最勝王経には、堅牢地神を大地神女とも説いているが、堅牢地神を同体とするものに地天があり、天女形で地天女とも呼ばれる。一般に地天(地天女)といえば、我国においては、ただちに兜跋毘沙門天が想起される。同天は足下に唐風俗の地天女や尼藍婆・毘藍婆の二鬼を従え、特に地天女が左右に差し出す手を踏むのを形相上の特色としており、中国唐代の請来像で京都・東寺像を最古最優作として広く流布し、多くの遺品が現存する。東寺像が『東宝記』によれば、当初、平安京羅城門楼上に安置されていたように、中国では兜跋毘沙門天が都城の守護神として信仰されており、『宋高僧伝(註2)』によると、唐の玄宗の天宝元年(742年)、吐蕃(チベット)などが西域キジルの安西城を攻撃した時、玄宗の命により不空が毘沙門天に祈ったところ、北の城門に光明大王が現れて、敵群を退散させたとある。この伝説が中国唐代に兜跋毘沙門天の造像の由来になったとされる。
足下の二鬼が省略されて地天女のみが、同天の両足を支える作例も、少なからずあり、画像ではスタインによって敦煌より将来された9世紀末の絹本着色画幡や、五代晋開運四年(947年)銘の木版画像(いずれも大英博物館所蔵)が、また日本仏画ではボストン美術館所蔵で鎌倉時代初期の絹本着色画において、毘沙門天が、全身をあらわした唐装の美女の左右に差し伸べた両手の掌上に立っている。
ところで何らかの像(ここでは地天女のような女神)の両掌を踏まえて、あるいはそれに支えられて立つ尊像は、兜跋毘沙門天以外にはない。本壁画において婦女像が支える尊像もまた兜跋毘沙門天像と考えられる。ただしここで問題となるのは本図の尊像がまず裸足であること、次に婦女に支えられているとはいえ、同時に蓮華座(いわゆる踏割式蓮華座)を踏まえていることである。現存する兜跋毘沙門天は例外なく金鎖甲のような甲を着け、足も脚絆などで固め、沓をはいており、スタインがラワク塔祉で撮影した女神が支えている塑像も、下半身しか残らぬものの、甲を着け沓を履いた天部像に相違ない。松本氏が同写真像を例示しながら本壁画の足の主として兜跋毘沙門天の名を上げなかったのも前記の点を意識してのことであろう。
松本氏が本壁画について意を致したのは、婦女および男子像の服飾であり、特に婦女像の上衣の袖が、中央アジア一般にみられ本壁画男子像がそうであるような窄袖ではなく、漏斗状に拡がっている型式を示すのは、ホータン地方で採用、あるいは考察されたものと断じ、ホータン地域のターリシュラクよりスタインが将来した壁画の婦女の例を示している(註3)。
本壁画がホータン様式とも呼ぶべき優れた表現を示し、なおかつその婦女像の服飾がホータン地域独自のものであることは、再び筆者に、毘沙門天がホータンで特に信仰されたことを想起させる。その根拠は、まず『大唐西域記』巻12の22で、玄奘が長旅の終り、帰国間近に立ち寄った瞿薩旦那国(今日のホータン)について、「王は甚だ勇武で、篤く仏法を信じ、自ら毘沙門天の後裔であるといっている。」と記し、有名な桑蚕伝説と共に毘沙門天による建国の伝説を詳しく記している(註4)。これにより遅くとも7世紀前半までには、ホータンにおいて毘沙門天尊崇が始まっていたと考えられよう。また『図画見聞誌』巻5には、車道政が、玄宗の開元年間(713〜741年)に勅命を受けて于国(ホータン)まで赴き、北方毘沙門天様(兜跋毘沙門天)図像を将来したことが記されている。
毘沙門天、とりわけ兜跋毘沙門天の起源については例えば、ガンダーラ地方出土の3〜4世紀頃の「四天王奉鉢」図浮彫などにみられる四天王の1人、肩にマントを羽織り、脚絆を着けた北方遊牧民の王侯姿の人物に求める説があり(註5)、さらに最近では、ガンダーラ彫刻の「四天王奉鉢」ではなく「出家踰城」に描写された2種類の毘沙門天像の中のイラン風のタイプに直接的に起源するとする新説(註6)もある。毘沙門天信仰の盛んであったホータン地方はこうしたガンダーラの図像を継承し発展させ、その系譜は中央アジア、西域、中国、さらには日本へと展開した。本壁画において、裸足で蓮華座を踏まえるという図像上看過できない点はあるが、この尊像のアトリビューションにおいてホータン地域で様々に伝えられる毘沙門天信仰を全く無視することはできない。
そして、本壁画右下の駱駝に乗る男子像もまた毘沙門天との関連が考えられている。スタインはダンダンウィリクのある住居祉の南東角の砂中から3枚の奉納板を掘り出した。中の1枚は、馬に乗る男子と駱駝に乗る男子とを上下に描いたもので、上の人物は宝冠様のものを被り、頭光をつけ、下の人物も頭光をつける(スタインは両者の神性を示すものとする(註7))。上、下の貴人はいずれも左手に手綱を執り、右手で貝殻型の酒杯、もしくは碗を挙げており、上の貴人のそれには、黒い鳥がまさに飛び込もうとしている。スタインは、同じダンダンウィリクのDX寺院祉から、馬に乗る同様の男子を描いた板絵(こちらでは人物の後ろから鳥が杯を狙っている)を発見している他、DII寺院祉の有名な竜女伝説を絵画化した壁面下部に見える図について、「馬や駱駝に乗った若者たちの行列を描いたもので、若者達は各々右手を伸ばして杯を持ち、一方、その内の1人の上部からは鷹らしい1羽の鳥が、その供物めがけて飛び降りようとしている。このような主題は、この辺りで流行していたらしい」と述べている(註8)。
ところでここでこの人物群と毘沙門天との関連がいわれている。すなわちクレアモント・スクリーン卿がホータンで収集し、現在大英博物館に収蔵されている板絵(残念ながらこの写真図版を筆者はどこにも見ることが出来なかった)に見られる毘沙門天像に向かって騎馬人物が進んでおり、黒い鳥が2羽配されているという(註9)。ここでもう一度、壁画断片の駱駝に騎乗する人物に戻ろう。頭光をつけ、後ろに2本のリボンをなびかせるところ、左手で手綱を執り、右手は何を持っているのか不明であったが、掌と屈した指の描写は、前記2人物を描く板絵と近似しており、右手先の剥落箇所には鳥はともかく杯が描かれてあった可能性は大きい。本壁画の男子人物が、ホータン地方の壁画や板絵にしばしば見られる図像であり、毘沙門天と関連するこの地方のかなり重要な伝説に基づくらしいことも看過できない。しかし堅牢地神(地天女)とみられる婦女像が支える尊像(これまで兜跋毘沙門天の可能性を論じてきた)との関わりは未解決の課題として残ったままである。
最後に本壁画の出土地について、一試案を提示したい。ホータン地域の一遺跡ヴァラワステでスタインが収集した三面四臂のシヴァ神が描かれた壁画断片がインドのニューデリー国立博物館に所蔵されている。M. Bussagli のCentral Asian Painting(註10)に収載されたカラー図版(60頁)でみると、ダンダンウィリク将来の板絵シヴァ神(大英博物館所蔵)と図像的には近似しながら、はるかに動勢と立体感に富んだ像容が見られ、その優れた造形には、まさに鉄線描というにふさわしい強靭な線描力が大いに与っている様に思われる。三目の正面にみられる顔の引き締まった輪郭や首の三道の線、主たる強い線に細い線を沿え、複線を持って作る鼻稜、右脇面の簡略な筆致ながら要を得た口元、屈した指先の表現などは、本壁画の婦女(地天女)像や駱駝に乗る貴人と軌を一にする表現が少なくない(註11)。
しかしニューデリー画は前記のカラー図版を見る限り、全体に黄味が強く白を基調とした本壁画の色感とは異なる。ニューデリー画の基本的図録であるアンドリュースによる大型図録(註12)は巨大で芸大図書館の特別な書架にあったため捜し求め得ずにいたが、ようやく本稿脱稿の段階で発見、ひもといてみると、モノクロ図版ながらニューデリーの壁画断片の全図が収められており、シヴァ神像のさらに右上には蓮華座を踏まえた尊像の右足先端が見え、本壁画の尊像の左足が踏む蓮華座と同一の描写であることを同図録の本文や、1933年ニューデリーのCentral Asian Antiquities Museumで開かれた展覧会図録解説(註13)でも確かめ得た。また両壁画のそれぞれ2分の1の縮小コピーを作り、突き合わせたところ両足や左右の蓮華座の大きさが一致し、両断片の合わせ目の凸凹もほぼ当てはまる。尊像の右足裏を支える婦女像の右手先部分が残念ながら欠落しているものの、両壁画断片が当初連続していたと考えて大過あるまい。従って両壁画断片は大小さまざまな尊像を配したかなりの規模の壁画の連続する一部であったと思われ、そこにまた図像学上の新たな問題が浮かび上がって来る。今後、ニューデリー画の実見調査による検証を経て、さらなる考察を進めたい。
上記のごとく本壁画断片はヴァラワステの出土であること、また年代はとりあえず Bussagli およびニューデリー展図録の推定による7〜8世紀頃としておく。
(田口榮一)
註1 Stein, A., Ancient Khotan, Vol. II, pl. XIV.