結語

 今回の再整理の結果、当初の目的であった彦崎諸型式の解明という課題については、一定の成果をあげることができた。中でも、彦崎Z2 式については、地点、層位ごとのまとまりを抽出することができたことにより、この型式がさらに年代的に細分される可能性を示しえた点は、重要な成果であったと考えている。ただし、彦崎諸型式を設定した山内清男自身が、各型式内容をどのようにとらえていたかという問題については、十分な資料が残されておらず、なお不明確な部分が残されている。
 また、かつて池葉須藤樹が報告したように、彦崎貝塚では地点によって出土土器が異なるという点についても、今回再確認することができた。時期ごとに遺物の集中地点が変化するということは、彦崎貝塚がどのように形成されたかという遺跡形成の問題を考える上でも、興味深い事実である。多数検出されている人骨についても、付帯の土器から見る限り、その多くは、池葉須が報告している通り縄文前期に属するものとみられ、これは人骨の集中する4、7、9区が、ほぼ純粋な前期の包含層に覆われているという事実とも整合的である。彦崎貝塚出土の人骨には、二次葬と考えられるものや、合葬と考えられるもの等、特殊な埋葬形態を示すものが含まれており、埋葬人骨の帰属時期については、今後さらに議論を詰めていく必要がある。
 彦崎貝塚の石器、骨角器について、これまで十分に取り上げられることはなかったが、今回、その多彩な内容を明らかにすることができた。とりわけ前期段階の骨角器の豊富さは特筆すべきものであり、多数の貝輪や装飾品、釣針、鹿角斧等は、土器や石器を中心に考えられてきた本地域の縄文前期文化に対して、貴重な資料を提供することになる。また、多数にのぼる貝輪とその未成品から、貝輪製作の流れを具体的に復元することができたことは、近年議論が活発化している、縄文時代の貝輪生産と流通の問題に関連して、重要な知見と言えよう。ただし、彦崎貝塚からは人骨が多数検出されているにも関わらず、貝輪着装例が確認されていないことは、この種の貝輪を、一様に装身具としてとらえることが難しいことを示している。
 東京大学理学部人類学教室によって、彦崎貝塚の第一次調査が行われたのは、1948年のことであった。爾来、半世紀を経てなお、彦崎貝塚から発掘された資料群は、多くのことを我々に語りかけてくれている。今後の課題として残された部分も多いが、本書が彦崎貝塚の歴史的意義の一端を、理解する手がかりとなれば幸いである。また本書は、我々だけでなく、彦崎貝塚の調査、研究に携わられた数多くの方々、ならびに今日まで標本の収蔵、管理につとめてこられた方々の、真摯な御努力の上にまとめえたものであり、関係各位に対し、ここに改めて深甚の敬意を表する次第である。

(山崎真治・高橋健)